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尖山 富山のピラミッド 古史古伝と大伴家持
富山・飛騨ピラミッドライン
古史古伝は古事記の草稿かー?
防人の歌に固執したー歌人・大伴家持の悲劇に潜む謎?
果たして日本の歴史は書き換えられたのか?
二上山頂上
武内宿禰の墓
竹内文献によれば、竹内文献を編纂したのは武内宿禰の孫・平群真鳥である。
二上山山腹
大伴家持の像
大伴家持は、越中守として富山に国守として赴任した。
在任は746年から5年間である。

大伴家持は万葉集の歌人として知られているが、謀反人として官位を剥奪されたことをご存知だろうか。しかも彼の死後にー、である。
785年越中守として富山に国守として赴任した。
在任は746年から5年間である。

西暦781年、50代天皇として即位した桓武天皇は、即位三年後遷都計画を宣言、その責任者に藤原種継を選任した。

種継は自ら造営長官として就任、異例の早さで工事を進め一年で新都を完成させた。 
新都は「長岡京」と命名され天皇は喜び遷都したのだが、この翌年、奇妙な事件が発生する。
責任者の藤原種継が暗殺されたのである。
工事現場の視察途中、暗闇から二本の矢が放たれて馬上の種継を貫き種継は死亡した。
ところが、事件はあっという間に解決した。

事件の首謀者は大伴竹良(たけら)、大伴継人(つぎひと)ら数十人ー。
自白によれば、これはクーデターであり、 計画の立案者が当時はすでに亡くなっていた大伴家持だったというのだ。

大伴家持は「万葉集」で後世に知られるが、種継暗殺計画は彼が生前に仕組んだものという。
暗殺完了後、桓武天皇を退位させ、弟の早良(さわら)親王を即位させる計画だった。実行犯は元より首謀者は処刑、関係者は流罪処分、すでに故人となっていた家持は生前の官位を剥奪され、彼の息子が壱岐へ流された。無論、早良親王も淡路に流される。

この暗殺事件は、後世、桓武天皇の謀略ではないかと云われる。
種継暗殺から犯人逮捕、 クーデター計画の発覚と余りにも天皇が迅速だったからである。

種継事件を契機に保守派を粛正したのが真相ではないかというのだがー。
淡路に流された早良親王は一切の食事をとらずハンストをして抗議し、ミイラのような状態で憤死したという。
彼の死に様は何かに抗議して死んだとも受け取れる。
早良親王は一体何に抗議したのか。
とりあえず、事件はこれで解決をみたが、話はこれからである。

この大伴家持は、名前からして「大氏」ではなかったか。
「大氏」は「多氏」であり「太氏」でもある。
古事記の編纂が太安万呂ー。
安万呂の「太氏」と大伴氏が同族であり、これに種継暗殺計画、そして、朝廷の隠匿政策を並べていくと、話は奇妙な方向に発展するのである。

大伴家持は、歌人として後世に名を残したが政治家である。 

彼は718年、大伴旅人の長男として生まれている。 
この父の旅人が、思想犯として罪に問われた長屋王の新政に助力していた。だが旅人は、長屋王に批判的な藤原不比等からうとまれ太宰府に左遷された。このとき家持は、父と共に筑紫に下る。
この翌年、長屋王の変が起こった。

長屋王は謀反人として処刑されているのだが、問題はこの罪状である。
長屋王の罪状はひそかに左道(邪道・不都合)を学び国家を傾けようと図ったというのだ。この糾問が舎人親王によって行われた。
舎人親王は日本書紀を編纂した人物である。
つまりこれは、反逆を計画したのではなく左道を学んだという点が罪に問われたのだ。
ーどういうことか。
つまり、日本書紀に書かれた歴史とは異なった歴史を学んだということではないだろうか。
日本書紀と異なる歴史・・とは、裏返せば、日本書紀が創られた歴史ということになりはしないか。

さて、その後の家持だが、738年ごろから聖武天皇の皇子・安積親王と親しくなり、親王死後の746年、 越中守として富山に国守として赴任した。
越中での任期は五年間、ここで詠んだ歌が防人の歌である。
754年、兵部少輔に任じ、東国の防人を閲兵してその歌を収集した。 
万葉集の巻二十は、ほとんどこの防人の歌で占められているという。

このあと彼は、藤原種継によって東北の鎮守府将軍にされて事実上の左遷にあう。 
遷都計画に批判的だったからだという。

彼がなぜ防人の歌に執着したのか。万葉集をよく知る人は謎のひとつだという。
だがここに、朝廷の隠匿政策をおいて考えると、数々の謎が連がっていく。

まず、父の旅人と長屋王。
親しかったのは、聖武天皇の皇子・安積親王。
そして「太氏」と大伴氏の同族の関係。
ここから導き出されるのはー、彼はこの過程で、政府の隠匿政策の一端に感づいたのではないか。

古事記の完成は711年だが、それまでに30年の歳月を費やしている。
この間、太安万呂は何度となく完成を奏上し、その都度、朝廷から書きなおしを命じられたという。
最後の711年でも、安万呂が奏上したのはその数ヶ月前、そこでふたたび書き直しを命じられ、そして提出した古事記が、最終稿となった。

ではこの時の、幾度か書き直した草稿は、どこへ行ったのか。 
原則は焼却だろう。だが彼は編纂の責任者だった。 
彼が焼却せず、ひそかに自分が保管していたとしても不思議ではない。 
その草稿には、完成古事記とは異なった記述が多々あったはずである。

家持の父・旅人も長屋王も、もしかしたら、この未完成の古事記に触れていたのではないか。家持の足跡は、父とともに筑紫にくだり、そのあと越中富山に赴任している。

じつは後世、この二つの地で一世を風靡した古文献が発見されている。
その一つが九州、豊後守の大友能直(よしなお)によって編纂されたという「上記(うえつふみ」。

「上記」は、天保初年に豊後の国学者・幸松葉枝尺(よしまつ はえさか)により世に出て、明治以降にその存在が知られた。
もう一つが、越中富山の「竹内文献」である。

この二書は、双方共に、神代から神武天皇までの歴史・文化が詳細に記され、古事記に記されない古代世界が記録されている。そして共通点としてウガヤ・フキアエズ朝の存在がある。

ともに後世の歴史家からは偽書とされているのだが、この偽書論の中に、平安時代ごろに作られたのではないかという説がある。
あるいは、この完成前古事記、あるいはその下書きが、大伴父子によって運ばれて伝承されたものかも知れない。
おそらくその下書きには、古事記草稿から抹消された数々の歴史が記されていたに違いないのだ。

竹内文献は、越中の竹内家に伝わった古文献で、竹内家の始祖は武内宿禰という。
この武内宿禰の墓が、富山県高岡市の二上山頂上に祀られているのだが、その真下の中腹に、大伴家持の銅像が建っているのは、はたして歴史の皮肉だろうか。

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